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なかちゃん@那覇の日々のくすりばこ

僕の青春時代!静岡での学生生活

僕の青春時代!静岡での学生生活

愛する母校、静岡県大
 学生生活を振り返った時、一番思い出深く、かつもう一回体験したいと思うのは、大学時代です。そう、静岡での4年間です。この4年間は、僕にとっては、一生の宝物。まさに「青春時代」そのものでした。この素晴らしい4年間を、じっくり振り返ってみようと思います。

1.入学前夜
 3年目の浪人生活のしめくくり、入学試験の総決算として、僕は琉球大学医学部医学科、秋田大学医学部、そして母校となる静岡県立大学薬学部製薬学科を受験しました。秋田大学の受験の時には39℃近い発熱があったものの何とか切り抜けて、センター試験の結果と二次試験の手応えなどから、たぶん3つとも大丈夫だと思っていました。しかし、結果は静岡のみが合格だったのです。両親はじめ自分の周囲は、あと一年頑張って見たらといっていたものの、この1年で気持ちが薬学部進学に傾いていたこと、そして自分自身が精神的にもういっぱいいっぱいだったこともあり、静岡県立大学、「県大(ここからは、そう呼ばせていただきます)」への進学を決意していました。

2.思いもよらず、たくさんの友達ができた大学時代
 1990年4月、満開の桜のもとで(県大周辺の桜は絶品です。僕の中での一番の名所かな?)入学式があり、僕は大学生としての生活をスタートさせました。沖縄から来た頃、一人暮らしを始めるワンルームマンションが空くまでの間、静岡駅前のビジネスホテル暮らしを強いられたことがあります。一人暮らしを本格的に始めた頃は、知り合いがあまりいないということもあって、たぶん「友達が全然いない、淋しい学生時代になるのかなぁ?」と思っていました。同級生の中で、年齢も上の方だったし…。そんな時、一番最初に友達になったのは、一つ年上の人でした。自分が一番年上だと思って、自己紹介で「一番年上かもしれないけど、どうぞヨロシク」と言った後に、「実は僕が一番の年上なんです」と言ってたんですよ。本当に優しくて、いい奴で、兄貴のいない僕は彼のことを親しみを込めて「あんちゃん」と呼んでました。「あんちゃん」を通じて、友人も何人かできてきます。でも、本当に友達がたくさんできたのは、5月のクラス合同コンパの時です。その時、もういいや、とばかりやけくそで工藤静香の曲(『MUGO・N…色っぽい』と『嵐の素顔』だったかな…滝汗)を振りをつけて歌ったら、なんと大うけ!友人たち曰く、「最初は年上だったし、なんかこう近寄りがたい雰囲気があったけど、あれで変わった」とのこと。この日を境に、たくさんの素晴らしい友人に恵まれました。

3.一生付き合える「戦友」たち。
 男女を問わず、たくさんの友人に恵まれて、僕の大学時代は過ぎていきました。でも本当に仲が良かったのは約10人くらいでしょう。前述のあんちゃん、そのあんちゃんを通じて仲良くなったM(神奈川出身)、高知出身で、自分と学籍番号が一つ違いのN、実習がいつもいっしょだったT雄(岡山出身)とT(滋賀出身)、今、大学に残っているO(岐阜出身)、みんなからしょっちゅうきついツッコミを入れられてたHちゃん(千葉出身)、一年遅れたけど、僕のあだ名の名付け親になったNぞう(埼玉出身)、地元・焼津の薬局の跡取り息子Njima、そして、このグループ一のエロじじぃ・Mちゃん(島田市出身)、そして女の子で唯一腹を割っていろいろなことが話せたH(愛知出身)ですね。こいつらは、「親友」というよりは「戦友」です。いつもいっしょにいて、同じ目標や志を持っていたからこそ、ここまで仲良く付き合うことができたと思っています。

4.僕のあだ名、「なかちょ」の由来について。
 このあだ名、最初つけられた時には、かなり落ち込みました。他の同級生と比べて、僕は年上だったこともあり、みんなが僕を呼ぶときには、「くん」「さん」づけで呼ばれていました。僕自身はそれが嫌で、呼び捨てでいいよと思っていましたが、みんな遠慮して…。そんな時に、前述のNぞうが、「『なかちょ』だったら、俺らも呼びやすいし、よし、決定!」と暴走。どうせそうはならないだろうと思っていた僕がバカでした。あっという間に仲間内に広がってしまったのです。でも、結局それで定着しちゃったし、みんなが変に遠慮しないで自分のことを呼んでくれるようになったので、今となってはNぞうに感謝してます。ただ、年賀状に自分の名前の横に「なかちょ」ってルビをふるのは勘弁してほしい。特にOとNぞうとH!

5.部活動とバイト
 県大では、4年間バイトと部活動に明け暮れました。ちょっとしたバイトは大学1年の頃からやってたけど、本格的に打ち込み始めたのは、大学2年生になってからです。部活は「コーラス部」。中学時代に合唱の魅力に取りつかれて以来、絶対にやりたいと思っていたのですが、ようやく打ち込める環境が整い、入部。素晴らしい先輩&同級生&後輩に恵まれ、楽しく部活に取り組むことができました。特に、ヴォイストレーナーのI先生のことは強く印象に残っています。
 バイトは高校生相手の塾講師を3年間。化学と生物を教えていました。ただ、そこの塾頭とは、指導方針をめぐってよくぶつかったなぁ…。

6.あんちゃんの死
 県大時代、もっとも忘れられない、かつ悲しい思い出が、「あんちゃん」が天国に行ってしまったことです。あれは今でも忘れられません。1991年8月14日の朝、寝っ転がっていた僕のところに友人Mから電話がかかってきました。沖縄くんだりまで電話してくるなんて、いったいどうしたんだろうと思って電話を取った時、彼の震えた声で、ただならぬ雰囲気を察していました。そして、あんちゃんの死を聞いた時、冗談だと思ったほど。でも、やっぱり確かめたくて静岡へ戻りました。お盆と重なった中、なんとか取ることのできたその時の飛行機のキップの半券は、今も大事にとってあります。悲しいことにそれは本当だったのです。聞けば、大雨の後の濡れた路面で滑ったあと、起き上がろうとしたところに乗用車が突っ込んできたそうです。顔を見たら、今にも起きそうな感じで…。それから大泣きに泣いたことは覚えているのですが、そのあとのことはあまり覚えていません。友人たち曰く、何を話しても上の空で、ずっと泣いてたそうです。翌日、お葬式で友人代表の一人として、弔辞を読んだのですが、正直何を話したのか、ちゃんと覚えてないんです。でも、精神状態はもうぎりぎりのところで、何とか踏ん張っていた感じです。
 あんちゃんが死んだ時、巷では「会いたい」(沢田知可子)が大ヒットしていたのです。暑い夏だったことを除けば、何もかもがこの歌の歌詞と同じような光景で…。正直、この歌の存在を恨んだこともありました。今はそういうことはないのですが、あの物悲しいギターのイントロを聴くと、胸が詰まります。ふっとしたきっかけで、「今頃、何やってんだか…」と思うときがあります。
 卒業後、手にした県大の卒業アルバムを見たとき、僕はまた泣きました。だけどそれは、悲しみの涙ではなく、友人たちへの感謝の涙でした。製薬学科クラスメイトの写真の最後に、あんちゃんの写真がありました。「故」と言う字は入っていたけど、みんなが僕と同じ気持ちでいてくれたことに、素直に嬉しく思いました。卒業アルバムは、僕の一生の宝物です。
 時が流れ、僕たちは着実に年齢を重ね、大人になりました。あんちゃんとの悲しい別れから、早いもので13年。2003年、13回目の夏を迎えました。昨年の夏休み、大好きだったあんちゃんに会いに行ってきました。お母さんとお話したあと、お墓参りにも行って、あんちゃんの大好きだった「レイニーブルー」、歌ってあげました。唯一の形見になった、二人で飲み屋で写ってる写真を持って…。あんちゃん、また来るからな。待っててね!

7.毎日、何かしらの話題で笑いっぱなしの大学生活
 3年生になると、いよいよ専門の講義や実習の時間が多くなります。忙しくて殺気立つこととかもありそうだけど、自分も含めて、アホ(関西人のニュアンスですね)揃いの友人たちが周囲にいると、笑いに事欠くということはまずありません。西日本生まれの友人が多かったからでしょう。ボケとツッコミのキャッチボールは絶妙でした。あれからもう10年以上の時が流れました。僕も沖縄に帰ってから、この悪友たちと何人か会いましたが、ちょっとしてきっかけで、すぐに学生に戻れるのが嬉しいですね。早いもので、来年の3月には、卒業して10年になります。またみんなに会ってみたいなぁ!でも、みんな全然変わってなさそう。

8.卒論実習と国家試験の勉強に明け暮れた大学4年時
 4年生になると、各研究室に配属され、最新の機器を使用しての卒論実習に入ります。僕が配属されたのは「総合研究センター」というところでした。ここは主に、元素分析などの業務を一手に引き受けており、他研究室からも使用者が訪れて、分析に使用します。構成は助教授1人と助手2人、研究生1人と、4年生3人というこじんまりしたモノでしたが、アットホームな雰囲気につつまれ、マイペースで最終学年を過ごすことができました。夏と冬のお食事会、金沢・能登への研究室旅行etc…。部活もめいっぱい打ち込めて、友人曰く「俺らの中で一番おいしい思い」をして過ごせたと思います。あまりにマイペース過ぎて、2年続けて薬剤師の国家試験を受験するハメになりましたが、今、こうして薬剤師としてお仕事してるので、まぁトントンかな?

9.県大生活最悪にして、一番恥ずかしい思い出
 これはホント、今思い出しても顔から火が出てきそうになります。忘れもしない1994年3月5日、卒業が決定して、ご苦労さん会という形で、悪友どもと飲むことになりました。メンバーはT雄、T、N、O、Njima、Mちゃん、Nぞう、Hちゃん、そして僕。このメンバーで飲むと、とにかく暴走します。僕もご機嫌で、飲んだ後酔っぱらって、少し寝てしまいました。思えば、これが「悪夢」のはじまりだったのです。
 飲み終わった後、超ご機嫌状態でセブンイレブンで買い物をし、ウチに送ってもらって、すぐに就寝。そして事件は起こりました。翌朝目が覚めると、真っ白なはずの枕カバーが真っ黒け!「!」びっくりして飛び起きて、鏡を見ると、両ほっぺには「笑っていいとも!」の安産マークが…。思わず倒れそうになりました。そして前日の記憶を冷静に振り返ってみると…。「あの時や!」そうです。寝ている間に、あいつらは僕の顔に「らく顔」していたのです。ということは、セブンイレブンで買い物していた時に、あのままで買い物していたということです。本当に気を失いそうになりました。当日県大に行く用事があって、大学に行くと、主犯格のOとMちゃんを発見!シメたのはいうまでもありません。だけど恐ろしいことに、このらく顔写真が卒業アルバムに載るかもとの一言…。それを聞いた時は、本当にへこみました。まぁ、載っていなくてホッとしましたが…でも、最近になって、こんなおいしい思いもそうできないよな、これでず~っとネタにされるし、などとも思えるようになりました。

10.笑顔いっぱいの卒業式と、涙・涙の謝恩会
 1994年3月24日、晴れ渡った青い空と咲き始めの桜のもとで、卒業式の日を迎えました。なんとその日は、沖縄から両親が来てくれて、両親と悪友どもが晴れて「ご対面」となったわけですが、ホント、悪友たちには最後まで毒を吐かれてしまいました。「どっからどう見ても親子や~!」とみんな大爆笑!父親もご機嫌だったようです。卒業式前の写真撮影では、一人「ピース」をしていたのを見事に撮られてしまい、「またしてもおいしいところを…」と苦笑されてしまいました。
 卒業式の後、研究室でささやかな昼食会を催しましたが、お互いの家族どうしで、この一年間のいろいろな思い出を話し合って、終始笑いっぱなしでした。そのあと、いったん帰宅、夜の謝恩会で再度集合と言うことになりました。
 謝恩会でも、一次会では終始笑顔、そのあと研究室メンバーでささやかな打ち上げをしたあと、悪友どもと待ち合わせて、静岡市内に繰り出しました。3次会はカラオケ、みんなご機嫌だったのですが、あと10分くらいでお開きって時に、自分に歌の出番が回ってきたのです。曲は「乾杯」、思えば、これは明らかに選曲ミスでした。実は歌い始めてすぐに泣き始めてしまったのです。元来、大の泣き虫の僕、失敗したなぁと思いました。ところが、僕につられたのか、悪友どもも泣いてて…。お開きまで、大の男が10人近く、肩組んで泣きながら歌を歌ってたのです。本当に最高の4年間だったんだなぁ、というのを実感したと同時に、この悪友どもに感謝しました。

11.本当の旅立ち
 謝恩会の翌日、東京へ行き、東京都衛生局(今年の8月から、「福祉保健局」になるそうです)新入職員への説明会を聞いたあと、すぐ静岡に戻りました。引っ越しの用意のためです。机や洗濯機などは、友人たちにあげました。引っ越し前日、高知出身のNから電話がありました。N「楽しいことも辛いこともいっぱいあったけど、いい4年間だったな。いろいろありがとうよ」と。他にも何人かから電話がありました。4月から新たな暮らしを始める僕にとっては、どんなに励ましになったことか…。そして引っ越し当日、静岡駅で新幹線を待っていると、聞き慣れた「なかちょ!」の声が…。振り返って見ると、そこにいたのは、一番の女友達・Hでした。お互い、辛い時には一番の愚痴の聞き役になり、物事の考え方とかが一番合っていたんでしょう。謝恩会では、あまり話せなくて、心の中にどこかしらひっかかるものを感じていただけに、来てくれて嬉しかった。だけど、彼女とはまた必ず会えると思っていたからでしょう。「ばいばい」とは言わず、「またね」とお別れしました。思えば、それが本当の意味での、「静岡からの旅立ち」だったんでしょうね。
 え?Hとは恋愛感情は湧かなかったのかって?もう時効だからいいかな?ハイ、正直言って彼女のこと大好きでしたよ。でも、彼女と話をしていると、恋愛感情は超越していました。これだけ腹を割って、いろんな話ができた女友達は、あとにも先にも彼女だけかな?


 以上、ざっくばらんにではありましたが、僕の楽しい大学時代を振り返って見ました。許されるなら、もう一回経験したいなぁ。



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